年々本を読まなくなってきた

本を読まなくなってきたことをわざわざ言うのは、本を読むことになにかを見いだすことになってしまうので、それについて語りだせば、読まないことは良くないことだという話に最後になりそうだが、前はじゃあなんですぐ買って読んでいたかといえばそれはよくわからないし、なんでだんだん読まないかもわからない。またまったく読まないわけではない。


知り合いが人前で本を読んでいるのだけど、よく読めるなと思う。読書時ひとは別次元に行っていると思う。その時、なんぴとたりとも話しかけてほしくないし、電話が鳴ることは最悪で、できれば知り合いのいない時にどっぷりやりたいものだ。この、読書時の次元違いの具合は、スマホ観覧とは似ているようで絶対的に違う線が引かれていて、

紙がページになり、字が着いた途端、遠目からしても、その時その人とわたしは一切世界のつながりを持たない。

読書は他人を無視し、世界理解の為にしていそうな行為の割に、わたしたちを断絶する。

それがあってこそまた学びを得、生きることの困難さに立ち向かう勇気を与えられもするのだが、

テレビを見ない、携帯をやらない、というのを宣言する人への不愉快さと、読書が好きだと言う人への不愉快さは自分のなかで同一の意味合いを持つようで、

読書が好きだというのは、なんだ?と。本が好きとかも、なにか言葉にするのは難しいのだが、なにかを占有しようとしている人間の言葉遣いに聞こえて、

昔、銀座の喫茶店でバイトをしていた時に、店長が俺はコーヒー嫌いだからねと糖尿っぽい顔で言っていたのを思い出して、いまに思えばなんだ好人物だったなと思うのだが。